6月 定例山行
史跡概観・己斐の歴史まち歩き
           西区己斐地区

6月12日(日)  ☆天気 雨
参加者21名 CL花岡 SL花房
島田 川村 田所 吉岡 佐々木 小林 成広(会友) 若木(一)
三重(成)三重(典) 西田 増本 秋信 江本 熊本(会友)
三浦 三村 宮木(一) 中島(美)
コースタイム
己斐公民館10:00→別れの茶屋→源左衛門橋→旭山神社→光西寺→
蓮照寺→植木屋次郎右衛門墓碑→キリシタン殉教之碑→滝之観音への道標→旧国鉄己斐駅原爆碑→ズッコケ三人組像(JR駅前広場)11:35
報 告
 あいにくの雨天でしたが全員定刻に集合、公民館にて案内人の細川さん・川口さんから己斐の歴史の概略とコースの説明がありました。己斐は三韓征伐の際この地に立ち寄られた神功皇后に、当時の県主が鯉を奉り、喜ばれた皇后が「鯉」「鯉」といわれたことから「コイムラ」となったという説とこの地が三方山に囲まれた地形で、谷間を昔は「峡」【カヒ(イ)】といい、カヒがコヒになったという説があるということでした。パンフレット『己斐ぶらり旅絵図』を頂き、最初に旧山陽道沿いにある別れの茶屋と源左衛門橋を訪れました。別れの茶屋はそこで西国に旅する人と広島城下の人が別れを惜しんだといわれる分岐点にありました。(今も蓬餅・きび餅・柏餅をつくられ茶屋の名残をとどめていられます。)源左衛門橋は浅野藩主の友源左衛門が大雨で八幡川が氾濫し通りかかった大名行列が困っていたのをみて、屋敷内より資材を持ち出しにわか造りの橋を架け行列を通したことからこの名がついたといわれています。己斐は爆心地から約2.4キロ離れているため被爆を逃れた建物があります。旭山神社・光西寺です。説明によると旭山神社は1555年毛利元就が厳島合戦の折ここへ必勝祈願に訪れたところ朝日が昇る様が美しく戦勝の気運の高まりを感じ、喜んだことから旭山となりました。光西寺は浄土宗本願寺派の己斐で最も古いお寺です。現在の本堂は明治43年(1910年)広島市内から移転され,百年の歴史があります。境内にはオオヤマレンゲがあり、下見の時は運良く開花していました。お寺の方からお接待を受け休憩の後、植木屋次郎右衛門の墓標を訪れました。次郎右衛門は己斐の地に造園や盆栽を普及・定着させ地場産業として発展させた人です。まちの道路沿いには造園の看板あり、盆栽ありで現在も三百数十年の伝統を受け継いでおられるようすが伺えました。後半キリシタン殉教之碑・滝之観音への道標・旧国鉄己斐駅原爆の碑をみて、西広島駅前広場にあるズッコケ三人組の像の前で記念写真を撮りまち歩きは終了となりました。ボランティアの細川さん・川口さん雨の中案内していただき有難うございました。今回は雨のため岩原城跡は訪れることが出来ませんでしたが、またの機会に岩原城跡・平原城跡へも別れの茶屋のお餅を食べながら訪れたいですね。
                  (記 花房 智子)

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